ゼロから

ずっとなにかに興味はあった。

子供の頃、3歳くらいの時、

両親の寝顔が怖くなった時期があった。

寝ている時は何処にいるのか、

そんな事がきになって仕方なかった。

いま、自分だけがココにいて、

両親は両親じゃない抜け殻なのではないかと。だから寝るのが怖くて、

眠くても目を閉じるのさえ我慢していた時があった。

親にきいたら、寝ている時は夢の中にいるんだよ。と言われ、なにもピンとこず、

なんとなく考えるのをやめた。

ひいおじいちゃんが死んだ時の、

気持ちと似てた。











鳥が、旅行先で死んでいるのをみて


鳥にみたてて、花か葉っぱを流したことがある。


あの時手を合わせて心の中で

ここじゃないどこかへ行けますようにと

願ったのをよくおぼえている。

何歳かは忘れたけど小さい時だった。





人にはなぜ感情があるのに、

消えてしまう瞬間があるのだろう。

休む?とは何か、頭を空っぽにするとは

どうやったらできるのか、




ずっとずっと考えてきた。

何も考えない、が、何なのか、


自分には分からなくて


とめどない思考が連なって

今に至る。



私はみんなが生きている事が知りたい、

本当に生きていのかが知りたい、




むきになったりするところがみたい、

ロボットには出来ない事が

目の前でみたい、



ちゃんといるのだろうか、

たしかにあるのだろうか、

ぱっと消えてしまう ような、

ものなのか。



苦しいは、人をつくった生物が

人がそれ以上知りすぎないように

出来ている罠な気がしてならない


その罠で考えるのをやめるのはいやだ。


なぜやめるんだ、軽く生きるとは?


いいのかそれで。


泣いてもつかえよ、ぎりぎりまで追い求めろよ、

悲しいから嫌なんてないよ、

1抜けてくまた、1抜けてく、


いやだ、悔しい、

それが鬱々としてると言うのか、

何故だ。何故。



迷惑?なのか?なぜ。

世間で見れば確かにとは思えるがなぜ、




軽い人が悪いというわけではない、

だが知ってたのならやめてほしくない


追求したなら挫折して欲しくない



これはおしつけだけど。





まだまだ悔しい。



わたしの心が感染すればいいのに。


共感じゃなくて、



もっと凄い人はいるのだろうから、


考えるのをやめるのはまだはやい。